第二回 2004.05.05 配信



こんばんは。 満月の日の夕方に配信される読み物、 第二回目をお送りします。

前回お送りしたお話には予想外に多くの反響があり、 「ちゃんと書かなきゃな」と身がひきしまる思いでした。 およそ月一回の配信なので、三日坊主にはなりませんが、 三ヶ月坊主にならないよう、頑張ってまいります。

今日は庚申研究の第一人者、 窪徳忠先生についてのお話です。





蟲話02 「道教学者窪徳忠の気概」


◆ 庚申研究のバイブル

ぼくのようなド素人も含め、 庚申講について研究している人間が まず間違いなくバイブルとしてとおる本が 「庚申信仰の研究」(窪徳忠・著/昭和36年刊)です。

膨大な資料渉猟と実地調査、そして緻密な論理構成で いまだに他の追随を許さない大作なのですが、 それだけではなくこの本は、 いまではあたりまえとされている、 「庚申講のルーツは中国の道教である」 ことを証明してみせた本としても 大きな意義を持っています。


◆ 窪先生、庚申に出会う

この本の著者、窪徳忠先生は東大文学部東洋史学科の 出身で、もともと日本の民俗学者ではなく、 中国の道教の研究者でした。

ところが道教の資料を読みすすめるうち、 日本の庚申信仰と似たような記述が 頻繁に出てくることに気がつき、 しだいに日本の庚申信仰に興味を持ち始めました。


◆ 窪先生、柳田氏に出会う

窪先生は日本民俗学の大家である柳田國男氏のもとに 相談に行きました。柳田氏は庚申講について すでに著作を出しており、そこでは 「日本古来の習俗であろう」と述べていました。

しかし柳田氏は、若い畑違いの研究者窪先生に対し、 笑って自分の所持する資料の閲覧を許しました。


◆ 窪先生、バッシングをうける

やがて窪先生は、集めた日本の資料と 自らの専門である中国道教の資料と重ね合わせて 「庚申講は中国の道教由来の信仰がもとである」 という説を学会で発表しました。

すると、民俗学者たちから激しい攻撃にあいました。 当時の日本民俗学会はみごとなまでに 「柳田原理主義」になっており、その神の結論に 異議を唱えることなど考えられなかったのです。

「民俗学のイロハも知らずに、何をたわけた空想を」 門外漢である窪先生は、さんざん嗤われそしられ、 学説は無視され続けました。


◆ 窪先生、牙をむく

窪先生がすごいのは、ここからです。
屈辱を感じた窪先生は、 じゃあ民俗学の手法で証明してやろう、と決意しました。 それまでのすべてを捨てて足掛け五年、 日本と中国の千を越す文献を渉猟し、 青森から鹿児島まで、五五一カ所におよぶ調査に たった一人でおもむいたのです。

日本民俗学会にたてついた立場である以上、 そちらから大きなバックアップは得られなかった ことは、想像に難くありません。 そんななか、ときには肺炎にかかり、 奥さんが制止するのを振り切ってまで、 雨の日も雪の日も、山を越え谷を渡って 実地調査を繰り返しました。


◆ 窪先生、勝利する

その苦労の末に完成した上下巻組の「庚申信仰の研究」は、 前述のとおり庚申講の成り立ちについての定説を 大きく塗りかえました。

本を読むと、窪先生の情熱と息づかいが感じられ、 そのころすでに衰退していた庚申講をテーマとしている にもかかわらず、生の調査からくるリアルなドキドキが 随所にちりばめられています。

でも、本当のドキドキは、 最後の最後に待ちかまえていました。


◆ 窪先生とぼく

この本の奥付には著者の経歴とならんで、 著者の住所が書いてありました。 その住所は「東京都新宿区上落合3-24-15」。 なんとぼくの住むお堂と、歩いて五分と離れていない ご近所にあったのです。

すごい偶然!

調べてみると、現在窪先生は隠居され 神奈川県に移られているようです。
しかし、窪先生が「素人のくせに」と嗤われ、 なにくそ、と頑張って研究していたときの本拠地が、 ぼくらの活動拠点であるお堂の目と鼻の先にあると知り、 ぼくはとても嬉しい気持ちになりました。




聴くところによると、窪先生はぼくら東京庚申堂の 存在や活動について、ご存知なんだそうです。 そこらへんについては、またいつか。

今日は天気が悪くて月がみえにくいようで残念。 次は、晴れるといいな。
次の満月は、六月三日です。







このページのトップへ
←前へ 蟲話アーカイヴ 次へ→
Home

Copyright © 2001- Tokyo-Koshindo.All rights reserved.